ナガオカケンメイさんは「近道」の人だと思っています。他人から見てどう遠
回りに見えてもナガオカさんには、「道理や理屈やしがらみや他人の目やらな
にやらかんやら」をすべてひっくるめると「それしか行きようの無い近道」が
どんと眼前に広がっているんだと感じています。
ひとつの文化的認識があること、何よりそれがうれしい。以前、中野の木工作家さんのお宅を訪ねたとき、「D&DEPARTMENTは民芸運動に続く、ある種運動だよね。D&DEPARTMENTが行き着く先を見てみたい。」と言われたことが。そういうところに関わることがこの東京一局集中化してしまっている現代でできている。それは、そうそう体験できることではないなと再確認した。
周りを見回した時、あまりに近すぎる目標で夢の無い話が多くなってきた気もします。近すぎる目標、つまり、どうやったら安定した生活が送れるか、とか、どうしたら定期的な収入を得られるかという考えも、まあ、悪いとは言いませんが、やはり、そんな話、つまんないんですね。そういう、近い目標、つまらない。そして、「世界の最高峰」とか「トップの舞台」とかそういう場所、僕はやはり見たいと思います。ズバリ、僕は「ナンバーワンよりオンリーワン」みたいな話、好きじゃありません。やるならやっぱり一番を目指したい、と。こういうの、きっと、共感を得にくい話かもしれませんが、僕は親父からそう教育されてしまった(苦笑)。「競争するなら一番を狙え」と。だからいちいち「トップの舞台」は意識します。とはいっても僕はデザインとかクリエイティブという世界に身を置いている。この世界、一番ということがわかりづらい世界です。悶々とします。この人が今デザインの一番です!っていうクリエイティブの競技があったら面白いだろうな。もしかしたらカンヌ国際広告祭あたりがそうなのかもしれないけど、結局、なんだか大手の代理店の競争を感じる。世界一の規模の広告会社とフリーランスが頂上決戦とかあったらすごく面白いのに…。そんな風に一番がわかりにくい世界の中で、だから、なんだかこうして、子供っぽい目標を大切にしたいなあと思います。で、今日もデザインの日々です。
わたしは「難解でなければデザインについて深い事を話せないのか?」そうい
う疑問をつねにいだいてきました。
そういう中で自分が考えついたのが『デザインの話を書く事なく、日常の生活
で出会った出来事や人やモノについてどう思うのかどう行動したかについて
書くだけで、読んだ人には「この人のデザインが見てみたい」と思わせる事は
できないだろうか。』という仮説でした。
デザインしたものがちゃんとしてれば、なにも難しい話をしなくても向こうか
ら話したくなるものです。見たくなるものです。 じゃあ笑顔の方がおたがい
に幸せじゃないですか。
すましていたり、難しい顔をしていると「なにも生み出さない」のです。
思いがけずうれしいことの表現に「棚からボタ餅」と申しますが、今の私の気持ちは、ボタ餅どころではございません。「棚から本マグロ」。これくらいの驚きでございます。
「この映画は、私がこれまでに見た映画製作の中でも最も素晴らしい作品の一つです。マイケルが持つ創造力の天才性をすべての面においてしっかりととらえており、天才と呼ぶだけでは足りないくらいです。天が彼に与えた才能に、喜びの涙が出ました。彼のような人は二度と出てこないでしょう」
自分は歳をとってこうして経験も積んでいった時に、自分よりもすごく若い人の話を真剣に聞くことができるだろうか。アドバイスが欲しいと言えるだろうかと考えさせられました。毎年毎年、少しずつ経験値は放っておいても蓄積していきます。覚える事と引き換えに忘れる事も多いのですが(苦笑)。でもきっと、「初体験」なことは少なくなって、緊張感などはだんだんと薄らいでいくでしょう。現に、プレゼンの場面で緊張することなど少なくなりました。そういう経験値はこの方のように「初心を忘れない姿勢」をどれだけ邪魔しないでいられるでしょうか。帰り際、質問しました。「ビジネスで儲けたら何しますか?」と。そして返ってきた答え「できるだけ後輩に負の遺産を残さないようにする。でも自分の技術は墓場に持っていくよ(笑)」きっと、継承のことを話されたんだと思う。次の世代にできるだけの援助はするけど、最後は自分でやれ、という意味に受け取りました。噛み締めます。
わたしは最近のデザインが雑貨に偏っているそう書こうと思って書き始めまし
たが、「雑」ではないところにたどり着いたようです。
「雑草という名の草は無い」ということばがありますが、そういう観点からい
えば「雑貨」という商品はあるんでしょうか。
「自由でいたかったら考えつづけること」
20年以上、ロックを聴いてきて学んだこと。
自分たちには何ができるかを必死で考えよう。
野党ではなく常に与党の精神で。
「届く確信」は、あくまでも「個人の中」の問題で社会とはふつうに対応
しなくてはいけませんものね。
デザインが「うまくいっている」とどう変わるか。
それはある意味「つつましく」なる。そう思います。ことさらおおきな声を
出さなくても相手に「声が届く」とわかれば、不必要に「エネルギー」を人は
使わなくなります。
さらにすすむと「わざと声を聞こえるか聞こえないか。までしぼってそのこと
の重要性を知らせようとすらするものです。